絶滅稀少人間図鑑
<佐山聡>
「諸君!」連載第9回

 十数年にもなろうか。プロレス中継が夜八時代のゴールデンタイムに放映されていた頃、梶原一騎 原作の劇画の世界から飛び出してきたヒーローがいた。新日本プロレスのタイガーマスク(初代)のことだ。当初は劇画人気に便乗する”奇をてらった”ものとして、観客の笑いを誘った。ところが、いざ試合が始まると、それまで見たこともない、蹴り技を駆使し、軽々と空中を自在に飛回る彼の華麗な四次元空中殺法に度肝を抜かれた。満員の観客から歓声とため息があがる。それもそのはず、タイガーマスクは、それまでメキシコとイギリスですでにストロングスタイルの本格派レスラーとしての人気と実力を立証していた。会社から「タイガーマスクとして一回だけでいい。マスクを被ってくれ」との至急帰国の要請があったのは海外遠征二年目の春。イギリスでの滞在予定はまだ一年も残っていたしタイトルマッチもひかえていた。三日にあげず催促の電話がはいる。「猪木さんはもう発表しちゃったから、なんとか彼の顏を潰さないで欲しい」こうして一九八一年四月二三日、蔵前国技館でのダイナマイト・キッド戦で佐山聡はタイガーマスクとしてデビューすることになった。
 このデビュー戦を私はリングロープの真下からファインダー超しに覗いた。笑い声でどよめく会場、私もつい笑ってしまった事を憶えている。  コミック・ヒーローをはるかに超えてしまった現実のタイガーマスク。それまでのプロレスの流れを一変させ、もはやひとつの社会現象ともいえるようになった。  一九八三年の九月ごろのことだ。人気は相変わらず絶高潮。圧倒的な支持を受けていた。だが彼は密かに悩みを抱えていた。  新日本プロレスに反アントニオ・猪木派によるクーデーターが起こり、いつの間にかその首謀者にされかかっていたのだった。  結婚問題でも会社側からは反対されていた。そんないざこざが続く中で、彼は”真の格闘家”への想いが日々募っていく。  そんな折も折、「写真週刊誌に素顔が暴露されそうなので、その前に、きちんとした写 真を撮って欲しい」という相談が私に届いた。すぐさまスタジオを押さえスーツ姿で撮影。なんともハンサムな顏がマスクの下から現れた。撮影しながら「タイガーマスクから格闘家」への転進を決意した佐山の覚悟のような意気込みを私は感じた。  新日本プロレス離脱後、「もう一度だけタイガーマスクとして”復活”しなければならない。アメリカに行かなければ…」。と告げた。私も同行することにした。ダイナマイト・キッドとの王者決定戦がカルガリーで予定されていたが、引退によってキャンセルされていた。キッドとは初戦以来のライバルだ。格闘家として今後やるためにも決着をつけなければならなかった。
 観客はいなくてもいい。ギャラもいらない。キッドも快く了承した。こうしてポートランドのキッドのジムで、ゴングなし、レフェリーなし制限時間なしのパーリングが行われたのである。キッドが太い腕を振り回し掴みにかかる。タイガーは素早く身をかわし空中回し蹴り。連続的な攻撃をキッドは必死にかわす。寝技になりキッドの腕が容赦なくタイガーの首をしめる。一転してタイガーが関節を締め上げ、キッドの顏が歪む。両者とも吐く息があがる。  三十分も戦ったろうか、険悪な形相で睨みあっていた二人から突然殺気が消え、笑みがこぼれた。どちらからともなく抱き合い肩を叩きあう。  好敵手たちの間にはもうわだかまりはない。佐山にとってタイガーマスクとの決別 の儀式は終わった。


 今回の佐山の訪米にはもう一つの目的があった。師匠であるカール・ゴッチとの再会である。新しい格闘技を目指すためにもストロングスタイルの技を極めたカール・ゴッチに教えを受けなければならない。 彼はプロレスの決め技の殆んどを考案した男。人体のすべてが急所だと知る世界でただひとりの男。強すぎて挑戦する者がなく、それゆえ無冠であり続けた男。プロレスのショー化を頑固に拒み続ける男。”プロレスの神様”と称せられ、今では伝説となった男である。 「アメリカのプロレスはダメになってしまった。君のような若い人たちの力で昔のように高級スポーツだった、ストロング・スタイルの格闘技に戻して欲しい」。   この言葉が常に佐山の脳裏に刻み込まれていた。格闘技は真剣勝負のようなも の。まず殴り合い、蹴りあいに始まり、組み、投げ、押さえ込んで相手の間接を決めるか首を絞めることによって決着がつくロスのジムで佐山は初心に還ってゴッチと四つに組んだ。関節を決められ、苦痛に顏を歪めながらも、想いは新しい格闘技への夢が膨らむ。
 その後の佐山は格闘技「掣圏道」を主宰し若手の育成に努めている。マスクを脱いだその時から抱く真の格闘家への道程はまだ果 てしなく続くようである。(文中敬称略)