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絶滅稀少人間図鑑
<長嶋茂雄>
「諸君!」連載第6回目

 長嶋ジャイアンツが王監督率いるダイエーホークスを降し,日本一になった。テレビに映るめっきり老けた長嶋茂雄を見ながら「長嶋を好きになったのは何時の頃からだろう」と思った。  とにかく最初に長嶋を意識したのは、十二〜三歳の頃からか。長嶋はまだ立教大学の学生であった。私の叔父もまた当時、関西大学の野球部でショートをやっていた。 後に長嶋の好敵手となった阪神タイガースの村山実が投げ、阪急ブレーブスの上田監督がキャッチャー。サードは難波昭二郎が守っていた。 確か昭和三十二年の全日本大学野球選手権大会の時だった。準決勝か準々決勝で関大と立教が激突した。私の叔父はその時ベンチで野次将軍。試合には出られなかったが長嶋を一目見て仰天したそうだ。 「打撃や守備を見なくても、ただグランドに出てきただけで、オーラに包まれ、こりゃあ器が違う」と故郷の高松に帰省した際、私に話してくれた。
 讃岐高松は水原監督や西鉄ライオンズの三原監督、快童中西太などを産んだ名だたる野球王国である。叔父から聞くスラッガー長嶋茂雄のイメージは野球少年だった私の胸に鋭く刻み込まれた。そしてまもなく彼は巨人軍に入団。初戦で国鉄スワローズの金田正一投手に四打席四三振を食らう。しかし、その豪快な振りと悪びれない所作に私はコロリと参ってしまった。その頃から我が家にもテレビが到来し、ブラウン管の長嶋に一喜一憂したものだ。
 ホームランをかっ飛ばしながら一塁ベースをスットバシてアウトの珍記録。捕れそうにもないゴロに横っ飛びで追い掛け身体が一回転するほどのド派手さ。先頭走者を追い抜きアウトで泣きべそ顏の長嶋の表情などは忘れられない程だった。並みの選手なら怒号、軽蔑、嘲笑の十字砲火の雨霰に晒されるのがオチだが、どっこい彼は違った。一年遅れで入団した王貞治は、合宿所の畳が擦り切れるほど素振りを繰り返し、精進と努力でヒーローになった。
 当時の社会現象でもあった「スポコン(スポーツ根性)もの」を地でいくような生真面 目さであったが、長嶋には、このような根性論はついて廻らなかった。さらに生まれ持った天真爛漫さがあり、彼のプレーや言動は常に一生懸命でありながら、どこかある種の滑稽さを漂よわせていた。この滑稽さ、無邪気さこそが日本のプロ野球ワールドにかってないエンターテーメント野球の火をつけたのではなかろうか。



 私がカメラマンとして初めて、憧れの長嶋を取材したのは川上哲治監督のもとで巨人軍v9が達成された日のことであった。だがこのシリーズで長嶋は右手薬指の骨折のため一塁コーチとして悔しい出場をしなければならなかった。ペナント旗を掲げてグランドを行進、観客に向かって大きく振る手には真っ白い包帯が巻かれていた。
 そしてこの日この時間一九七三年十一月一日午後四時、偶然にも長男が生まれ、私は父親になった。
 「巨人軍は永久に不滅です」と名台詞を 残して長嶋が引退したのは翌年のことだ。
 下っ端カメラマンだった私に割り当てられた引退試合の撮影現場はグランドの内ではなくて観客席を駆け廻ってフアンの表情を押さえることであった。広いグランドに花束を抱えた長嶋がぽつんとスポットライトで照らされていた。それを遠くに見てあちこちでフアンは泣いていた。私もまた仕事をすることも忘れて彼を眺め続けていたような記憶が残っている。
 0N砲と称せられアベックホームランで観客をわかせた長嶋と王。その王貞治と大リーグのホームラン王ハンク・アーロンが夢のホームラン競争をおこなった。 あらかた取材を済ませた私は、すぐさま長嶋のほうへ近づきカメラを向けた。彼は大きなゼスチャーで笑いながら「今日は王さんが主役だよ」とおどけた。
 言葉ではなかなか表現できないが、その 笑顔と暖かさに、またまた惚れた。


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