絶滅稀少人間図鑑
<田中角栄 >
「諸君」連載第1回


「一国の総理総裁はなろうと思ってもなれ るものではない。時がきて天が命じなけれ ば絶対になれない。」  私が聞いた田中角栄の言葉の中で最も印 象に残っている言葉である。 ”首相になること”と”首相であること” の違いを言ったものであろう。昨今話題に なってる「リーダーの資質」論議の中でそ う思えてならない。
 田中角栄は1972年に若干54歳で首相の座に就いた。「日中国交正常化」「日本列島 改造論」などで強烈なリーダーシップを発揮した。敗戦の廃墟から不死鳥のように甦った我が国だが、元首相はまぎれもなくその牽引車の役目を果 たした一人である。
 田中角栄を撮り始めたのはわたしがフリーの写真家になった頃と一致している。 それまで週刊誌のグラビア担当で毎週毎 週の埋め草的な仕事に飽きていたのかもしれない。じっくり時間をかけて取り組む取 材がしたかった。
 私の感覚では、だれもが撮りたくて、だれもが撮れなかった「目白の闇将軍も秘境 の一つだな」であった。
 世に出てくる元首相の写真はどれもみな意図的で失望した。もっと様々な表情があるはずだ。大げさに言えば、それを撮るのが同時代を生きたカメラマンの努めではないか。だれかが撮らなければならない。 できれば自分が撮りたい。 「角栄を攻撃せざるはジャーナリストにあらず。」との風潮さえあった程だから先輩からは「特定の政治家を撮るのはジャーナリストとしては危険だよ」との忠告も受けた。だがもうその時は、困ったことに自称他称「やじうまカメラマン」はこの人間臭い原日本人を撮ることに我を忘れていた。
 それほど被写体としての角さんは魅力的 であった。軍団に激をとばす時の”力”の 風貌はレンズを通して私の背筋を凍らた。
 一転故郷の実家で近所のおばさん達と大 笑いをするさまはシャッターを押す私の顔 が思わずほころんでしまうほどの親しみを 感じさせる。
 密着取材を始めたころ、わたしの存在は「路傍の石ころ」であった。カメラを向けるとたちどころに表情が硬くなる。「ピカッとする奴」「写 真屋」「写真の専門家」「山本くん」最後には「山ちゃん」と 呼び名が変わるまでに3年の月日が流れた 。呼び名の変化につれてカメラの前でより 自然な写真が撮れるようになったのはいうまでもない。
 大の写真嫌いではく、”撮りたい撮りたい”とギラギラしたカメラを持つ人間の心根までもを洞察していたのである。


 取材を始めてから二年が過ぎようとして いた1984年の夏、田中角栄は軽井沢でゴルフを楽しんでいた。余談だが彼のスピードゴルフは想像以上のものだった。カメラを構えたまま後ろ向きで駆け出さなければ写 真は撮れない。無我夢中で走ってるうちあまりの痛さに足を見るとなんと生爪が三枚はがれて血を吹き出していた。なんというパワーだ。
  わたしは痛さも忘れてしばし呆然とした ものだ。1ラウンドが終わって休憩中、角さんは汗まみれになった体をゴシゴシと拭いていた。上半身裸になった角さんの背中は筋肉が盛り上り、とても60歳半ばとは思えない。わたしはそろそろ後ずさりして木立の中に身を隠し望遠レンズをセットした  なに食わぬ顔をして角さんの前にでると 突然「今日から別荘に来ていいよ」と言った。  田中角栄の夏休み別荘暮らしは「合宿」 と称され秘書兼運転手の従兄弟とSPだけ の男所帯だ。よそ者は入ったことがない。  天にも昇る気持ちといったら大げさだろ うか。まして半月ほど前、西山町の実家で 風呂上がりの角さんに合宿参加の希望を 「せっかく命の洗濯なのに君はわたしを殺 すのか」とこっぴどく断られていたからな おさらだ。
 居間に角さんはいた。風呂上がりでパン ツ一枚。団扇でバタバタ扇いでいる。 挨拶してカメラを構えると、「ここは 合宿だ。仕事なんかやめて風呂に入れ」
 夕食は自ら味付けしたすき焼きだ。醤油 だけで砂糖ヌキのすき焼きは失礼ながらと ても食べられたものじゃなかった。
 その夜はまんじりとも出来なかった。 明け方四時頃、隣室からウオーっ吼え声が する。角さん流の目覚ましだった。大声を出すことではっきり目覚めた角さんは布団のなかにくるまったまま枕元の資料や書類に目を通 して朝一番で指令をだす。  寝る前に鋭く研がれた赤鉛筆の芯はみん なが起き出す頃すべて丸くなっている。  結局、寝る以外は浴衣かパンツ一丁の合 宿生活で写真は撮れなかった。だが西山町でのせっぱ詰まったわたしの表情を覚えていてくれたのは間違いない。角さんはそれに答えてわたしが望んでいた別 荘生活のギリギリまで見せてくれたのだと信じている。