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チベット大紀行
大洪水・長江源流を行く!

チベットのラサに入るべく上海から成都へとんだ。 中国の国 内線の登乗機はいつの間にかボーイングに変わっていた。前にはすべてソ連(ロシア)製の飛行機だったのに。これまで何度も乗ったことのあるアメリカ製の航空機なので何となく安心する。成都に近ずいて来た時、それまで淡いオレンジ色の残光で輝いていた空はたちまち真っ暗になり、座席の横のまるい窓に強い雨雫が叩き付けてきた。いったん高度を下げランデイング寸前だった機体はふたたび上昇した。降りられない。横殴りの集中豪雨だ。
そのまま十数分間も旋回をつづけ、結局重慶に引き返して着陸した。 重慶は長江(揚子江)下りの船がでる所だ。ここ も雨もようだが成都ほどひどくはないようだった。だがいつ 離陸できるか分からないまま、雨と靄にけぶった滑走路を見 ていると最近の長江の氾濫のニュースが頭によぎり始める。

 三峡ダム建設で有名な長江沿岸の地域が度重なる大雨で被 害が甚大だという。来日の予定であった江沢民も水害の大作 のため予定を延期した。中国から流れてくるニュースは懸命 に土のうを築く解放軍兵士の活躍振りばかりを伝えていた。  長江中域の武漢は有名な製鉄の都市だ。この国家が最大限 重要視する武漢を守ろうと、上流の土手を爆破し暴れ狂う河 水を他にそらす。そのため約50万人の農民たちが強制疎開 されたという話も耳に新しい。公式発表ではないがこの水害 による死者の数はすでに20万人を超えたといわれる。これ ほどに長江の氾濫は猛威を振るっているのだ。長年のチベッ ト行きが実現しここ迄来て、なにやら前途に暗雲が立ち込め てきたように不安になった。
それにしても宗さんは大丈夫 かな?

 宗さんというのは三峡ダムの建設基地となってる宜 昌市の新聞記者である。わたしに同行してチベットに行くこ とになっている。昨日の電話では水害の取材で飛び回ってる ので同行できるかどうか分からないということであった。成 都で待ち合わせることになっていた。 3時間遅れでやっと 成都についた。雨はもう小振りになっている。

 偶然にも宗さんと成都空港のバッゲージ・クレーンで会え た。通訳の鄭さんも一緒だ。市内のホテルで落ち合う約束だ ったのが私のフライトが遅れたおかげでチベット行き一行が 一時に合流できた訳だ。 宗さんはぎりぎり迄同行できるかどうかわからなかったという。 だけど「長江源流を見ることは子供の頃からの大きな夢の一つで今回はどうしても行きたかったのだ。」と漢民族特有のいかつい顔をすこし綻ばせながら言った。

 成都からラサまでは約2時間のフライトだ。この2時間でいっきょに標高3千メートル以上を駆け上がる。心配なのは高山病である。 なにしろ富士山の頂上より高い所の町なのだ。 高山病については諸説まちまち。個人差が大きく作用して、まったく平気なひともいれば高熱、嘔吐、下痢と症状はさまざま。 まあ、でたとこ勝負でいくより仕方がない。


 年間300日は抜けるような青空で快晴の日が続く…筈だったラサは小雨だった。空はどんより雲がおおっている。空港を出てまず眼にはいったのは大きな原色の歓迎アーチの後ろに翻る五星紅旗だった。  ふつうチベットというと中華人民共和国西蔵(チベット)自治区をさす。17世紀以降、政治、宗教の統治を担っていたダライ・ラマ(観音菩薩の生まれ変わりという)が1959年にインドに亡命を余儀無くされてから中国統治がはじまった。その間には小国の哀しさ、インドや中国などの大国にはさまれ、インド支配をおこなっていた英国などにも干渉を受けていた。  その後、中国政府はチベットを自治州、省や県にして600万人のチベット人を「小数民族」とよび統治を続けている。 「草原の民」であるチベット人は従来、ヤクやひつじの牧畜で生きてきた。自給自足の生活だ。グル(テント)にはもちろん電気などはない。  中国に編入されてから確かにチベット人の暮らしの水準の良くなった部分はある。 しかし教育や経済の分野で漢人化を要求され、チベット人の反発も大きい。また中国人の入植者もどんどん増える一方だ。 さらに中国型自由経済が入り込み、貨幣万能のシステムにチベット人の多くは戸惑い、その反発からたびたびデモなどが行われた。 (以下略)

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